年末年始総決算その二 リアリティ
電話でスレイマンと簡単に話す。彼は今日、ロンドンでオーディションを行っている。
サラ・ケイン作「クレンズド」をロンドン北部のアルコラ劇場でみる。劇場まで乗っていたバスが、ある女性の車にぶつかり、運転手との口論が止まず、歩くことにする。アルコラの一帯は、中東の音楽と肉の匂いが漂う、時に非常に暴力的な、独特な空気が漂っている。
芝居は、役者のほぼ全員が全裸になったり、チョコレート一箱食らったり、例の「ゴキブリ」シーンでは(ラボから買ってきた?)ピクピク動く生ゴキブリを摘みあげたりと、役者の限界に挑戦するかのようなリアルさを押し出していた。だが、劇場でそうしたリアリティが、必ずしも吉には転じる訳ではない。
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A.タルコフスキーの『鏡』を、DVDで久しぶりに見る。ノスタルジックにして、リアルな母の姿。高校生の頃、タルコフスキーに入れ込んでいたことを思い出す。夫はこの映画を元にしたプロジェクトをやっていて、舞台セットに使う落ち葉拾いに精を出している。ので私も手伝うために秋の公園へ。プラタナスの黄色が美しい。
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夜、徒歩でダンスシアター、プレイスへ。イスラエル出身のヤスミン・ゴデールが振り付けする『ストロベリークリームと火薬』を見る。きな臭い裸舞台に、木目調のフロアマットが引かれ、中央に人口芝のような緑が点在、後方にはスプリンクラー、下手にはチェックポイントの交通遮断機が置かれている。そこにダンサー男三人、女四人、下手後方にミュージシャン二人が入ってくる。
Tシャツ、ランニング、コットンパンツと色とりどりのカジュアルな夏の格好をした男女が立ち並ぶ。照明は一貫して変わることなく、眩しく乾いた残酷なまでに豊穣な土地を喚起させる。やがて無作為な正確さともいえるタイミングで、左右から女二人が兵隊のような動きで前に歩み出し、交錯し、互いに持たれ合う。二人とも、カーキ色の服を身につけている。独りは白黒のランニングとカーキの短パン。もう一人はピンクのシャツとカーキのミニスカートの下に、ピンクというよりイチゴ色の下着。直感で、彼女がヤスミンだと分かる。前者が後者の顔を掴み、拳銃のような形をした指を口の中に突っ込む。抑圧する者とされる者という両者の関係が静止画像のように提示される。エレキギターからノイズが爪弾かれる最中、抑圧者と被抑圧者、力を行使する者と拒絶する者、見る者と見られる者といった権力関係は、悪ふざけとも悪意のある演劇/ダンスワークショップとも呼べるような反復運動の中で、複雑かつ過剰に入り乱れていく。
女が腕を組んで辺りを凝視する。女が顔を風船のように膨らませ、爆発させる。男が男の体を愛撫/蹂躙する。男が女の体を愛撫/蹂躙する。女が男の身体/死体を護り嘆く。女が手を天使のように腕ばたつかせながら、鼻歌を歌いながら至福の表情を浮かべ、色とりどりの下着をちらつかせて後退する。見る者の神経と集中力を麻痺させるかの反復運動の中に挿入される凍結した瞬間は、イスラエル人のガザ地区撤退や、パレスティナ人自爆テロ後の模様を映した、日々何回も放映されてきたニュース番組の静止画像のようにも見える。遮断機がオートマティックに上下する傍らで繰り広げられる病的なまでに卑猥な抗争、血に塗れた必死のポルノグラフィー、暴力の持つ悲劇性と神性のパロディとも描写可能な身体表現の再生産によって、空間は次第に体臭に満ちた生生しいもの、メディア画像の平面を意識させ、さらには突き破るリアルなものとなっていく。
圧巻は最終場面。観客の拍手を異化し、暴力を単に芸術に昇華させて終わることを拒絶する手法によって、この作品はイスラエル/パレスティナの持つ複雑な問題を、壁の内の閉塞的なイスラエル内部から批判する回路を見出し得ている。

サラ・ケイン作「クレンズド」をロンドン北部のアルコラ劇場でみる。劇場まで乗っていたバスが、ある女性の車にぶつかり、運転手との口論が止まず、歩くことにする。アルコラの一帯は、中東の音楽と肉の匂いが漂う、時に非常に暴力的な、独特な空気が漂っている。
芝居は、役者のほぼ全員が全裸になったり、チョコレート一箱食らったり、例の「ゴキブリ」シーンでは(ラボから買ってきた?)ピクピク動く生ゴキブリを摘みあげたりと、役者の限界に挑戦するかのようなリアルさを押し出していた。だが、劇場でそうしたリアリティが、必ずしも吉には転じる訳ではない。
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A.タルコフスキーの『鏡』を、DVDで久しぶりに見る。ノスタルジックにして、リアルな母の姿。高校生の頃、タルコフスキーに入れ込んでいたことを思い出す。夫はこの映画を元にしたプロジェクトをやっていて、舞台セットに使う落ち葉拾いに精を出している。ので私も手伝うために秋の公園へ。プラタナスの黄色が美しい。
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夜、徒歩でダンスシアター、プレイスへ。イスラエル出身のヤスミン・ゴデールが振り付けする『ストロベリークリームと火薬』を見る。きな臭い裸舞台に、木目調のフロアマットが引かれ、中央に人口芝のような緑が点在、後方にはスプリンクラー、下手にはチェックポイントの交通遮断機が置かれている。そこにダンサー男三人、女四人、下手後方にミュージシャン二人が入ってくる。
Tシャツ、ランニング、コットンパンツと色とりどりのカジュアルな夏の格好をした男女が立ち並ぶ。照明は一貫して変わることなく、眩しく乾いた残酷なまでに豊穣な土地を喚起させる。やがて無作為な正確さともいえるタイミングで、左右から女二人が兵隊のような動きで前に歩み出し、交錯し、互いに持たれ合う。二人とも、カーキ色の服を身につけている。独りは白黒のランニングとカーキの短パン。もう一人はピンクのシャツとカーキのミニスカートの下に、ピンクというよりイチゴ色の下着。直感で、彼女がヤスミンだと分かる。前者が後者の顔を掴み、拳銃のような形をした指を口の中に突っ込む。抑圧する者とされる者という両者の関係が静止画像のように提示される。エレキギターからノイズが爪弾かれる最中、抑圧者と被抑圧者、力を行使する者と拒絶する者、見る者と見られる者といった権力関係は、悪ふざけとも悪意のある演劇/ダンスワークショップとも呼べるような反復運動の中で、複雑かつ過剰に入り乱れていく。
女が腕を組んで辺りを凝視する。女が顔を風船のように膨らませ、爆発させる。男が男の体を愛撫/蹂躙する。男が女の体を愛撫/蹂躙する。女が男の身体/死体を護り嘆く。女が手を天使のように腕ばたつかせながら、鼻歌を歌いながら至福の表情を浮かべ、色とりどりの下着をちらつかせて後退する。見る者の神経と集中力を麻痺させるかの反復運動の中に挿入される凍結した瞬間は、イスラエル人のガザ地区撤退や、パレスティナ人自爆テロ後の模様を映した、日々何回も放映されてきたニュース番組の静止画像のようにも見える。遮断機がオートマティックに上下する傍らで繰り広げられる病的なまでに卑猥な抗争、血に塗れた必死のポルノグラフィー、暴力の持つ悲劇性と神性のパロディとも描写可能な身体表現の再生産によって、空間は次第に体臭に満ちた生生しいもの、メディア画像の平面を意識させ、さらには突き破るリアルなものとなっていく。
圧巻は最終場面。観客の拍手を異化し、暴力を単に芸術に昇華させて終わることを拒絶する手法によって、この作品はイスラエル/パレスティナの持つ複雑な問題を、壁の内の閉塞的なイスラエル内部から批判する回路を見出し得ている。
